行ってきました。桂小文治「十八番創りの会」第51回
いつものように平日の夜だから・・・少し時間休をもらって午後のスーパーひたちに飛び乗って新橋へ内幸町ホールは、地下通路の途中にある。
桂小文治師匠は、私が大学入ったときには、卒業してたのでどんな方だったのかは、知らない。
今回は、「佐野山」と「大山詣り」楽しませていただきました。
膝替わりには、桧山うめ吉さんが出てた・・・・・昔、この方のお師匠さんにあたるのかな・・・・桧山さくらさんという方を寄席で見た・・・・品のいいお母さんみたいな方で好きだったなぁ・・・
寄席の音曲っていいな。
で、会場で見たことのある方が隣に座った・・・・途中で前の方に知った方がいたのか・・・そちらに席を代わられたが・・・・・あの鬼瓦のような沖縄のシーサーのようなお顔立ち・・・あれは確かに落研の先輩、当時から母親似だという圓満先輩では・・・・・開演前にお声をおかけした。・・・・・「間違ったらごめんなさい・・・・
○○さんですよね。先輩四年の時一年でした。」・・「芸名、なんて言ったっけ?・・・」
「大福です」・・・・「あーそう。思い出した・・・・」「ご無沙汰しております・・・・・」
まあ、そんな会話だった。・・・・本名では、出てこなくても。芸名では覚えてていただいた。
あの頃、俺は、生意気で先輩方にも反抗的だったけど・・・・・優しい対応ありがとうございます。母親似というお顔は、昔のマンマで懐かしかったです。
最近。横山秀夫さんの小説「64」(ロクヨン)が映画化されて・・・・(前編)を観てきた。警察小説。
原作を読んでしまうと、映画を十分に楽しめなくなるのでは、・・・・と原作本は買ってあるが、まだ読んでいない。
映画の舞台は、昭和64年から始まる。
7日間しかなかった昭和64年。
俺の1989年、昭和64年
東京でのプー太郎暮らしでにっちもさっちも行かなくなって、茨城に戻ってアルバイト暮らしをしていたころだ。
設計事務所の電話番や初心者マークを付けた緑ナンバーの軽トラックでの宅急便の集配所廻り・・・・・天皇陛下の下血も落語も含んだお笑いや歌舞音曲のたぐいイベントや行事の自粛も遠くの出来事のようで・・・・・・年が明けて彼女が茨城に帰ってきたので久しぶりにあったんだっけ・・・・・・水戸駅の改札で待ち合わせ。当時、彼女は神奈川で婦人警官。その日は勤務のない日でゆっくりできるかと思ったけど・・・・・・すぐに、彼女の携帯に電話が入った。すこし離れた場所で、南口への通路の窓に向かって携帯で話をする彼女を見ていた。・・・・彼女が遠く感じた。・・・・・・天皇陛下の容体悪化の為、急ぎ勤務地に戻るようにとの指示だった。・・・・とりあえず・・・千波湖近くの近代美術館の芝生の庭を散歩して・・・近況を伝えあいお互いの写真を使い捨てカメラで撮った。あたりに人気がなくツーショットで一緒の写真は撮れず・・・どんより曇った空の下、から元気でおどける彼女が写った1枚と・・・うれしいけどなんか淋しげな俺が写った1枚の写真だけが残っている。・・・・・・昭和の終わり・・・・彼女と会うこともなくなった平成がもすぐそこまで来ていた・・・・そんな64・・・・何かが終わったんだな・・・・もう戻ることはない。
桂歌丸さんが笑点の司会者をおりて、春風亭昇太さんが新司会となったということが、スポーツ新聞に大きく出ていた。この間亡くなった柳家喜多八さんの時の記事より、大きく芸能面を埋めてた。
俺は、喜多八さんを熱心に追いかける客ではなかったけれど・・・寄席でもう見られないのは、淋しい。
もっと、芸能面でとりあげていい噺家さん、落語家さんだったと思うけどな・・・・・